キリスト教は邪教です。天才ニーチェとバカ万人

 

ニーチェは、キリスト教神学者がでっち上げた

邪教であることを見抜いていた。

しかし、イエスの教えを否定したわけではなかった。

 

<一部抜粋>

キリスト教は「希望」というものを上手に使います。苦しんでいる人に対して、簡単に満たされて用済みになってしまわないような「希望」を、彼らの手の届かないところにわざと置く。そうやって人を釣るわけです。

 

また、キリスト教は人気を集めるための「工夫」をたくさんしました。神の「愛」というくらいだから、神は人間のような形をしてたほうがいい。庶民の人気を得るためには若者にしたほうがいい。女性を熱中させるために、美しい聖者を登場させよう。男性を熱中させるために聖母マリアを前面に出そう、などなど。

 

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しかし、こういったバカバカしいヨタ話がヨーロッパで受けいられるようになってしまったのは、いったいなぜなのでしょうか?

やはりヨーロッパは、ギリシャ神話の美の女神であるアフロディテや彼女に愛された少年アドニスに対する礼拝があるような地域だからでしょう。

 

いずれにせよ、こういった「工夫」によって、キリスト教礼会は、ますます熱狂的なものになっていきました。彼らは「愛」を利用しました。「愛」とは物事をありのまま見ない状態だからです。

人間はそこに夢や幻を見ます。また「愛」は人間に我慢することを教えます。それで、キリスト教は人々に愛されるような物語をでっち上げたのです。

 

エスキリスト教は無関係

エスの教えの中には「罪と罰」や「報い」といった考え方がない事です。神と人間との距離関係はすべて取り払われている。

エスにとって、「信仰によって受け取る幸福」とは約束事ではなく、もっと現実的なものでした。それは、信仰ではなく、行動する過程で決まるのです。

 

エスの教えはこうです。

自分に悪意を持っている人に対して、言葉でも、心のうちでも、決して刃向かわない。外国人と自分の国の人を区別しない。

ユダヤ人と非ユダヤ人(ゴイム)を区別しない。

誰に対しても、腹を立てない。誰をも軽蔑しない。

法廷に訴えることもなく、誰の弁護も引き受けない。

どんなことがあっても、たとえ妻が浮気しても、離婚しない。

 イエスはこれらの教えを実行に移そうとしました。

 

エスにとって、ユダヤ人が行っていた儀式やお祈りは、意味のないものでした。そうではなく、イエスの教えを実践することによってのみ神に導かれるのです。

こうして、イエスは「罪」「罪の許し」「信仰」「信仰による救い」といったユダヤ教の教えすべて否定しました。

 

エスは自分が「神の子」であると感じるために、現実的に人生を生き抜くしかなかったのです。そのことをイエスは本能的に知ってました。どんなやり方をしても、「天国」に生きているという感じがどうもつかめない。どうすれば、「自分が天国にいる」「自分は永遠である」と感じれるようになれるか。そういう疑問を持っていたわけです。

 

ようするにイエスのライフスタイルであって、新しい信仰ではなかったのですね。イエスは精神的なものだけ「真理」とみました。イエスにとっては、時間や空間は、歴史といった実際に存在しているものは単なるたとえ話の材料程度のものでした。

 

エスの教えでは「人の子」という考え方は、歴史上の具体的な人物ではなくて、現実的なものすべてから解放された象徴なのです。

 

「神」「神の国」「天国」「神の子」といった言葉も同じです。

人間のような姿をしている「神」、いつかそのうちやってくる「神の国」「天国」三位一体の中の「神の子」といったキリスト教の考え方は、実はイエスの教えとはまったく関係ないのです。

 

教会が「父」と「子」という言葉を使って、何を表現してるかは明らかです。「父」は「永遠性」「完結性」を表し、「子」は「すべてに光があふれるような感情に歩み入る」ということを表しているのでしょう。

教会はこうしたもっともらしい象徴を使って、物事をでっちあげてきました。まったく、恥知らずとはこのことです。

 

教会はキリスト教を広めるために、古代ギリシャのエロ話などを使いだし、あげくの果てには、「聖母マリアが処女で妊娠した」などと言いだしました。

処女が妊娠するわけがないでしょうが。

このようにして、教会は妊娠という大切なものを汚らわしいものにしてしまいました。

 

「天国」とは心の状態です。地球上のどこかにあるものではなく、あの世にあるものではない。

エスの精神世界は全く別にあるので、死や時間、病気といった現実的なものとは関係ないのです。

 

「イエスの国」は、たとえ1000年待ったとしてもやってくるものではありません。

それは、あくまで心の問題なのですから、「神の国」は

どこでもあるし、どこにもないとも言えるのです。

 

キリスト教の「バカの壁」イエスは人間を救うために生まれたのではなく、人間はいかに「生きるかを教えるために」死にました。

実践、つまり実際ものごとを行動に移すことこそ、イエスが人類に残したのです。

<転載終了>

 

 

行動に移すとは、キリスト教に騙されて、すべてを知った気になって、異教徒を非難し、神社仏閣、神棚、仏壇を破壊しているあなた、あなた心は喜んでいますか?

そんなことをしても、心の平安は永遠に訪れることはないでしょう。洗脳というバカの壁を、打ち破るのはあなた自身です。

 

*あなた=偽キリスト教

 

ニーチェはアンチキリストだったがイエスの教えや生き方を認めていた。キリスト教は教会がでっち上げた。

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