昭和天皇は原爆開発に猛反対した。

 

 

愛国社会主義研究会さんより

https://blog.goo.ne.jp/shishisamurai/e/ab1aafbc70d67c91e2ea85d76521d531

昭和天皇は『未来』を見据えていた

大祭司天皇は、日本の神『ヤオヨロズ』の霊を

受けて話す。

日本の運命は、悪魔に誘われ大陸に進出した時、

すでに決していた。

それを予感していた昭和天皇は、御前会議でも

こう言って抵抗していたのだ。

「大陸には出るな」

しかし、軍部の勇み足がそれを無視して暴走した。

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天皇の猛反対


天皇の「原爆に対する態度」を著した資料がある。


1. 『昭和天皇』  出雲井晶(いずもいあき)著             日本教文社

2. 『日本・原爆開発の真実--究極の終戦秘史』  

           五島勉(ごとうべん)著  祥伝社

3. 『天皇の真実』  

           河内正臣(こうちまさおみ)著  たま出版


これらの情報源は、昭和20年(1945年)2月当時、海軍航空本部の嘱託、ウラン情報担当だった『岩田幸雄』氏である。

彼は、陸軍大臣杉山元』(すぎやまはじめ)宅で聞いた極秘の話を故あって公表した。(文末資料:p193)


資料「1」の中に、こんなエピソードがある。


昭和20年2月

杉山元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。

「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。

その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。

実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」


・・・
ここで、『新兵器』とはもちろん『原爆』である。

そして『御上』とは、『昭和天皇』であった。


岩田氏は、「記録映画」を使って、杉山元帥に各国の原爆開発事情を伝えていた。(この映像は秘密の記録だった)

それを見た元帥は、こう語ったという。

「自分としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。そして完成すれば、最初『ハワイ』に落とし、その威力を示し、戦況を日本軍有利に導く計画であった」

ところが、「横やり」が入ったというのだ。


日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相、『東条英機』がその旨を昭和天皇に上奏した。

彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」・・・と思っていたようだ。

しかし、

昭和天皇は『意外に強い口調』で反対されたという。


「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。

それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。

またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地アメリカ人民と共に苦労し、今日を築きあげたところだ。

そのような場所に新兵器を使用することには賛成できない。」


・・・
叱責を受けた東条は、杉山にこう言った。

天皇陛下のご意志に反することはできない」


しかし、杉山元氏はこう主張した。

「敗戦となれば日本が滅びてしまい、全てを無くしてしまう」


その論理はこうである。

参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことはできない。

戦争とは結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できるときではない。

勝てば天皇にお喜び頂けるに違いない。そして天皇が希求される世界平和を実現できるではないか」(上記資料1)


しかし、東条とは平行線だった。
杉山元帥は、参謀総長を東條に譲って退いた。


ところが、彼がカムバックする機会が訪れる。

同年7月

東条内閣総辞職後、『小磯国昭』内閣が誕生する。

杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。

彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。

ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。

天皇陛下の耳に入った。


杉山元帥は、こう述懐する。

天皇陛下から呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。

私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心(おおみごころ)を煩わせた罪は万死に価いする。

さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。

ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。この事を知っている者は、天皇陛下と東条と自分だ。」


・・・
杉山元帥は、敗戦直後自決した。



  天皇は『未来』を見据えていた

大祭司天皇は、日本の神『ヤオヨロズ』の霊を受けて話す。

日本の運命は、悪魔に誘われ大陸に進出した時、すでに決していた。

それを予感していた昭和天皇は、御前会議でもこう言って抵抗していたのだ。

「大陸には出るな」


しかし、軍部の勇み足がそれを無視して暴走した。


外国には、天皇ヒトラーと同一視するような勘違いがあった。

しかし、天皇が政治に介入できたのはわずか三回だけである。


(1) 2.26事件  (「近衛軍を率いて鎮圧する」と言って激怒)

(2) 「張作霖爆殺事件」(天皇は激怒し、内閣が倒れるに至る)

(3) 終戦の決断 (原爆後も「本土決戦」を唱える軍部を押さえた)


それ以外はほとんど、陸軍を中心とする勢力によって押し切られていたのが実態である。軍部が力を握った日本の政治システムで、天皇個人の意向は生かされなかった。

これこそが「日本暴走の図式」である。(天皇の口を封じれば、危機が訪れる)


結局、天皇の原爆製造に抵抗する言葉は、遠い未来・・・日本が苦難を乗り切った後の世に向けた言葉だった。

そしてその姿勢は、ずっと一貫して変わらない。

昭和天皇の「核拡散防止条約」(核防条約)への強い関心は、この精神が産み出したものだ。それは、日本が「核を使う国」として汚名をはせ、日本の神ヤオヨロズの嫌悪を引き起こさないための措置だった。


「核を使う者、核に滅ぶ」

やがて、その因果が世界に知られる日が来るだろう。

その時、日本になぜ「核開発阻止」の力が働いたかが理解される。

それは、民族を護る神ヤオヨロズの先見の明であり、救いだったに違いない。


(資料・昭和天皇の極秘指令:6章  講談社


原爆開発中止を命じられた昭和天皇  1


原爆開発中止を命じられた昭和天皇 2


自然学者・自然愛好家であらせられた先帝陛下は地球ごと人類を滅ぼしかねない核兵器を否定なされました。



そして、その核兵器を使用したアメリカを強く非難されました。

終戦詔勅

敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セム

(口語訳)
敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に謝ればよいか。

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ドイツの原子力開発は少なくとも大戦前(1939年前)までは世界を一歩リードしていました。

原子爆弾という兵器の構想自体はWW2の30年前から存在していました。

原子力という新しいエネルギー源は既に発見されており、世界各国でこの新エネルギーを軍事利用する競争が始まっていました。

1914年に発表されたハーバート・ジョージ・ウェルズSF小説「解放された世界(World Set Free)」では核兵器の使用で都市が壊滅される世界戦争が描かれています。


(ハーバート・ジョージ・ウェルズ)


(解放された世界)

核分裂の発見

世界で初めて核分裂を発見したのはNSDAP政権下のドイツでした。

1938年12月、ドイツの科学者オットー・ハーンとシュラウスマンがウランの核分裂を発見したのです。

1940年3月には世界で最初の原子炉がベルリンに作られています。
また、1940年6月には、ドイツ軍がパリに入城した際に、フランスで最先端の原子力研究を行っていたジョリオ・キュリーの研究装置を接収しています。

そして、ドイツはヨーロッパの主要なウラン産出地であるベルギー・オランダ・ルクセンブルク(ベネルクス三国)を支配下に置き、ウランの輸出を差し止めました。

また、原子力利用には欠かせない重水(質量数の大きい同位体の水分子を多く含み、通常 の水より比重の大きい水)を独占的に商業生産していたノルウェーのノルスク・ハイドロ工場も押えました。



つまり、1940年の時点で第三帝国は核開発において最も有利な立場にいたのです。

これに焦った連合国は必死にドイツの核開発の進展を探り、阻止しようとしました。

ノルウェーのノルスク・ハイドロ工場やドイツの秘密兵器研究所があったペーネミュンデは執拗に空襲されました。

ノルスク・ハイドロ重水工場破壊工作

ノルスク・ハイドロ重水工場破壊工作(ノルスク・ハイドロじゅうすいこうじょうはかいこうさく)は、第二次世界大戦ノルウェーの破壊工作者が、核兵器の開発に利用できる重水をドイツの原子爆弾開発計画が入手するのを阻止するために起こした一連の破壊工作である。1934年にノルウェーの企業ノルスク・ハイドロがヴェモルクに、肥料生産の副産物として世界で初めて重水を商業的に生産できる工場を建設した。第二次世界大戦中、連合国はナチス・ドイツ核兵器開発を阻止するために、重水工場を破壊して重水の供給を絶つことを決定した。テレマルク県のリューカンの滝にある、60 MWのヴェモルク水力発電所が攻撃目標となった。

ドイツのノルウェー侵攻より前の1940年4月9日に、フランスの諜報機関参謀本部第2局が、当時はまだ中立国であったノルウェーのヴェモルクの工場から185 kgの重水を撤去した。工場の管理者であったAubertは、戦争の期間中この重水をフランスに貸し出すことに同意した。フランス人らは重水を秘密裏にオスロスコットランドのパースを経由してフランスへと運び込んだ。工場は重水の生産能力を持ったまま残された。

連合軍はなお、占領軍がこの工場を利用して兵器開発計画のための重水をさらに生産することを心配していた。1940年から1944年にかけて、ノルウェーの抵抗活動による破壊活動と、連合軍の空襲により、工場の破壊と生産された重水の損失を確実なものとした。これらの作戦は、「グルース」(Grouse、「ライチョウ」)、「フレッシュマン」(Freshman、「新人」)、「ガンナーサイド」(Gunnerside、イングランドの村)とコードネームが付けられ、最終的に1943年初頭に工場を操業停止に追い込んだ。

グルース作戦では、イギリス特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)が、工場の上にあるハダンゲルヴィッダの地域に先発隊として4人のノルウェー人を送り込むことに成功した。後に1942年に、イギリスの空挺部隊によりフレッシュマン作戦が実行されたが、失敗に終わった。彼らはグルース作戦で送り込まれたノルウェー人たちと合流し、ヴェモルクへと向かう予定となっていた。しかしこれは、軍用グライダーがそれを牽引していたハンドレページ ハリファックス爆撃機とともに目的地手前で墜落したために失敗した。他のハリファックスは基地に帰還したが、それ以外のすべての参加者たちは墜落の際に死亡するか捕えられ、ゲシュタポにより尋問され、処刑された。

1943年に、イギリス特殊作戦執行部が訓練したノルウェー人の特殊部隊が2回目の作戦「ガンナーサイド作戦」で重水工場を破壊することに成功した。ガンナーサイド作戦は後に、イギリス特殊作戦執行部から第二次世界大戦でもっとも成功した破壊工作であると評価された。

こうした破壊工作に加えて、連合軍の空襲も行われた。ドイツは工場の操業中止を決め、残りの重水をドイツに輸送することにした。ノルウェーの抵抗活動は、ティン湖において鉄道連絡船「ハイドロ」を沈め、重水の輸送を阻止した。

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また、アメリカの核開発計画である「マンハッタン計画」自体、ドイツよりも先に核爆弾を完成させることを目的に開始されたものでした。

ドイツの研究レベル

戦後、第三帝国の核開発研究者はイギリス軍に捕縛されました。
イギリスの調査団によると、ドイツの核開発は非常に低レベルな段階でしかなかったされています。

この報告が、ドイツにおける核開発の定説を作る源になっています。

しかし、この英国調査団の報告は確かなものとは言えません。

何故なら、当時の連合国は枢軸国という共通の敵を前に便宜上協力しているだけで、まったくの味方同士だった訳ではありません。
(思想面で言えば、民主主義の米英と共産主義ソ連ファシスト的な中華民国が同居していたくらいです。)

つまり、連合国内部でもライバル関係にあり、常に他国を出し抜いて軍事的に優位に立ちたいという気持ちは持っていました。

もし、連合国のいずれかがドイツの原爆を発見したとしても、絶対に公表することはないと思われます。
仮に公表してしまえば、他国もドイツから原爆の情報を奪い取り、自国で原爆を製造するに違いありません。

イギリスの調査団が「ナチスは原爆の開発はしていない。」と結論づけたのは当然と言え、仮にドイツが原爆を完成させていたとしても、「開発はしていない。」と報告したでしょう。

従って、調査団の発表だけをもって、「ドイツの核開発は低レベル」と言い切ってしまうには、確証が乏しいのです。

ドイツの核開発はカイザー・ヴィルヘルム研究所で行われていたとされています。

戦後、同研究所のヴェルナー・ハイゼンベルク所長は、イギリスの監視下の下で母校で原子力研究を始めました。

ハイゼンベルクは部下の研究者たちがソ連に引き抜かれることを恐れて、アメリカに招聘されるように働きかけていました。

しかし、これに「彼らがアメリカに行けば、核の研究をアメリカが独占することになる。」とイギリスが反対しました。

もし、ドイツの研究レベルが低ければ、このような措置は取ったでしょうか?
これこそが、ドイツのレベルが高いものであった証拠であると言えます。

また、終戦時に最も手際よくドイツの科学者を引き抜いたのはアメリカでした。(ペーパーグリップ作戦)

つまり、アメリカが秘密裏に各研究者を引き抜いていた可能性は十分あります。

島型原爆はドイツ製

原爆にはウラン型とプルトニウム型の2種類があります。

日本に落とされたのはその両方です。


(ウラン型「リトルボーイ」)


(プルトニウム型「ファットマン」)



アメリカが実験に成功したのはプルトニウム型であり、ウラン型の原爆は実験されていません。

それにも関わらず、アメリカは最初にウラン型を使用したのです。

普通、新兵器を使用する時は成功する確信があるものを用意するはずです。

そして、当時の主なウラン鉱脈はドイツが抑えていたので、アメリカはドイツが降伏するまで十分なウランを確保できなかったはずです。

そのことから、「実はドイツは既に核開発に成功しており、それを手にしたアメリカが日本に落とした。」という説もあります。

また、ソ連の最初の原爆開発にはドイツの研究者が参加していました。

このソ連の原爆は、ウラン型の「リトルボーイ」のコピーでした。

アメリカとソ連が核開発について情報交換したという形跡はないので、ソ連が何故、リトルボーイのコピーを作れたのかという疑問が生じます。
そこで、米ソ両国には共通する知識を持つ技術者がいた可能性が出てきます。

つまり、米ソの核開発にはドイツの科学者が関与していたのではないかということです。

ドイツが核開発に成功していたという説は、戦後、何回も持ち上がっています。


ナチスが核実験」ドイツの歴史家が新説

中日新聞 - 2005年3月15日

【ベルリン=熊倉逸男】ナチス・ドイツ核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた-との新説を紹介した本「ヒトラーの爆弾」が十四日、ドイツで出版され、信ぴょう性をめぐり論議を呼んでいる。

著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは一九四四年から四五年にかけベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。四五年三月三日、ドイツ東部テューリンゲンで核実験を行った。被害は半径約五百メートルにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約五百人が犠牲になった。開発は、ヒトラーナチス指導層も承知していたという。

新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。

ドイツでは一九三〇年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチス核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した-というのがこれまでの定説だった。

独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。



この記事に載っている著書「ヒトラーの爆弾」によると、ドイツにはイギリス軍が拘束したハイゼンベルグのグループ以外にも核開発チームがいました。

著者のライナー・カールシュはロシアの公文書館などの資料からこの事実を発見しており、その資料を照らし合わせた結果、ドイツが小型の原爆を既に開発していたとの確信を抱きました。

また、ドイツの核開発についてはスパイ「べラスコ」の証言というものがあります。

べラスコ:日本・ドイツなどの枢軸陣営で活躍したスペイン人スパイ



スパイ“ベラスコ”が見た広島原爆の正体

スパイがくれた一通の手紙がある。筆者の手元に届いたのは、今から20年ほど前、20世紀末のことだった。差出人はアンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコ。第二次大戦中に暗躍した、ユダヤ系スペイン人の元ナチスのスパイである。手紙は広島に落とされた原爆の知られざる“顛末”を簡略に述べたものだ。曰く、戦時中に開発されたナチスの原爆がアメリカの手に渡り、それが広島に投下された。この“奇談”を、べラスコが私に明かしたのは、1982年ごろのことだった。もしもそれが真実なら、ナチス原爆の行方をどうやって、どこまで知ったのか。その詳細は追って手紙で知らせてくれる約束だった。ところが、その2年後に届いた手紙は、筆者の期待を見ごとに裏切っていた。


「原爆の秘密については、これまであなたに話した以上の内容はない」


手紙は、そんな文面で始まり、しかも内容は、前回、口頭で語った話をなぞっただけの「まとめ文」に終わっていた。原爆の話はもう喋らないというわけだ。それはべラスコの過去を考えてみればもっともなことだった。筆者は、あれこれ問うのはやめた。べラスコは知り得た秘密を語らないことで生き長らえてきた。つまり、沈黙が安全保障、いうなれば生命維持装置だったからである。問い質すのをやめた理由はもうひとつ。それは彼の持論にあった。


「スパイが入手した情報に、客観的事実を求めるのはナンセンスだ。自分の発言は自分自身が保証したのだから、他人から保証を求められる筋合いのものではない。世間でまことしやかに使われている、客観的事実などという言葉ほど当てにならぬものはない」


この言葉を一理あると認めたのである。その反面、筆者の腹の中はやり場のないモヤモヤで満杯になってしまった。それにしても1982年のあの日、べラスコが唐突に切りだしておきながら、今度は手のひらを返すように黙りこくってしまったあのナチス原爆の話は、いったいなんだったのか。疑問がつまった腹を撫でつづけているうちに、とうとう「そのとき」を迎えてしまう。べラスコの死である。世紀をまたいだ2002年、べラスコは97歳で大往生した。


「大切な秘密は墓場まで持っていく」


べラスコは口癖どおり、この一件の詳細を黙して世を去った。原爆そのものがべラスコの自尊心を傷つけかねない因果な“産物”だったから、これ以上は語りたくなかったのだ。筆者はそう勘繰ることにした。

ナチス原爆の“秘話”は荒唐無稽にも見える。と同時に、人類の歩みにつきまとった“業”を正面きって明かす話にも思える。だが、核は今なお、人々の自由を縛る恐怖の道具でありつづけており、そこに“賞味期限”はない。

べラスコが鬼籍に入って3年目がすぎた2005年、筆者は腹の中に抱えたこの原爆話を吐きだして、彼の墓前に手向けることにした。ただ彼が墓の中へと持ち去った「大切な秘密」を、古い手紙から類推するためには、スパイもので知られる、作家ファーゴ(ラディスラス)の次の言葉を乗り越えねばなるまい。


「秘密諜報機関は歴史を変えることはあっても、歴史学者に影響を与えることは皆無だ。学者の作る歴史書や指導者が語る回顧録の中にスパイの顔は見えず、その存在はとるに足らぬもの、忌み嫌われるものとして無視されてしまう。諜報員らの恩恵に浴した政治家や外交官ならびに将軍たちが過去を語るとき、最後までかつて世話になったスパイを隠してしまうのである」


とはいえ、その反対にスパイが金や自尊心のために守秘義務を放棄したり、私怨から「真実」をねじ曲げてしまう場合がないとも限らない。高度な秘密などと称して、歴史をミスリードする“陰謀”もありえるからだ。


これが、1982年にべラスコから届いた「まとめ文」である。


あなたの参考になる原爆情報は、私がすでに述べ、書き記したことにつけ加えるものはわずかだ。

①ドイツの新型爆弾は、ペーネミュンデの工場で完成した。爆弾をどこでどう使うのか、爆弾の製造にかかわった連中に使途は明かされなかった。彼らの中にはイタリア人専門家もいた。彼らは後に、その爆弾が広島で使われたことを知った。

②爆弾は1943年4月21日、チェコスロバキアボヘミア地方にある原生林(セルバ)で、実験に成功した。実験の最高責任者はハベルムル氏。彼は当時のドイツで、最も革新的兵器の開発研究者で構成されたグループのリーダーだった。

③ペーネミュンデ市の工場で完成した新型爆弾2個は、その後ベルギーのリエハに移送された。そこから爆撃機に搭載して、ロンドンとリバプールの両市にそれぞれ投下する予定だった。だが投下しなかった。なぜなら、フューラー(ヒトラー総統)が、「死体はもうこれ以上は不要だ」と厳命したからだといわれた。

④ベルギーでロンメル(将軍)の動向を逐一把握していたアプヴェール(ドイツ国防軍諜報部)の工作員から、2個の新型爆弾が1944年11月にロンメル将軍の手で、アイゼンハワー将軍に渡されたとする情報が入った。ロンメルの裏切り行為は、SS情報部のワルター・シュレンベルグ指揮下の秘密諜報員(エージェントVIC13)も裏づけている。ロンメル将軍はSSの手で処理された。敵に渡った2個の新型爆弾は、その数か月後にアメリカ軍の手で広島・長崎に投下された。

⑤戦後間もなく、ドイツの新型爆弾が連合軍に密かに渡された経緯を知る複数のドイツ人らが、ハベルムル氏やベルギーで敵側に原爆を渡した旧ドイツ軍人らを追跡調査した。だが、追跡者たちの意図と行動は、CIAの手で完全に断たれた。ハベルムル氏はソビエト軍に拉致され、ブレスラのミテ工場に留置された。彼はその後、モスクワに送られて消息不明になっている。

アンヘル・アルカッサル・デ・べラスコ 1984年1月29日



手紙には、別の価値があった。ひとつは、1982年にべラスコが漏らした話と、その内容はピタリ一致していたことだ。この対話を筆者は録音テープに残していた。テープの内容と手紙の概要は寸分も違っていない。記憶の精度にも優るもうひとつの価値は、原爆定説に裏があると思わせたことだ。何事にも表裏はある。べラスコは、あっけらかんと原爆定説の、いわば裏の部分を指摘している。その価値は小さくない。

いわゆる一般常識なるものが、実は、だれかに根気よく丁寧に、しかも意図的に育まれた常識だとすればなおさらだ。歴史の舞台裏で生きた男が、やれ常識を疑え、認識を見直せ、などとわめいてくれているのである。常識が秘話を疑えば、秘話もまた常識を疑わせるというわけだ。もしかして世間の常識人は、とんでもない常識を背負わされて、それに気づかずに生きているのかもしれない。そう考えれば、べラスコが唱えた“念仏”には意味がある。だが、常識や定説の壁は厚い。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

>>フューラー(ヒトラー総統)が、「死体はもうこれ以上は不要だ」と厳命したからだといわれた。

また、軍需相のアルベルト・シュペーアも回想録の中で「ヒトラーは原爆を嫌っていた。」と述べています。


まとめ

今までは教科書の自虐教育やメディアの偏向報道によって、「連合国=人道的・平和・正義」「枢軸国=非人道的・侵略・悪」とされてきました。
(日本は南京事件慰安婦問題をでっち上げられ、実際にあった通州事件・シベリア拘留・原爆投下は封殺され、ドイツはホロコーストをでっち上げられ、ソ連の犯罪「カティンの森虐殺」を押しつけられました。)

しかし、実際は日本とドイツは核兵器使用を躊躇い、アメリカは躊躇いなく使用した挙句、人体実験を行いました。

どちらが人道的な国でしょうか?

愛国社会主義研究会は「日本は核武装して永世中立国になるべき」と主張しています。

日本は核武装永世中立国を目指せ! http://blog.goo.ne.jp/shishisamurai/e/7c9d1407de9c7a6649693491bede376d

これは、核兵器を憂慮された先帝陛下の御遺志に背くものです。

しかし、核兵器のない世界を建設するまでは核兵器が無ければ国を守れないという現実も認識する必要があります。

非核保有国が核保有国に何を言っても相手にされませんが、核保有国同士なら対等に話ができます。

核廃絶のために核武装するというのは本末転倒に聞こえるかもしれませんが、それが一番の近道だというのが本研究会の主張です。




神の化身、サイババは、国を守るのは、愛と真実と正義である。と昭和天皇と同じく核開発、新兵器開発に反対した。非暴力、絶対に人を傷つけてはいけない。すべての人を愛しなさい。軍事力の優位性は、エゴです。自国の平和を守るのに他国を傷つけてはいけない。

万物は一つに繋がっています。