「世界のミフネ」-三船敏郎は特攻隊を経験、戦争とは、「無益な殺戮」だった

 

ハリウッドの映画監督も尊敬する日本の国際スターといえば

「世界のミフネ」と呼ばれた男—三船敏郎

 

世界のミフネが元特攻隊員だったことは、あまり知られていない。

三船は、自分の息子たちを前に置いて、戦争体験を語りボロボロと

涙を流した。

三船は、戦争とは「無益な殺戮」だった。

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三船は1920年4月1日、中国山東省で誕生し、5歳から19歳まで大連で暮らした。父親が写真館を営んでいたことから、三船も写真技術に詳しくなった。 少年期のほとんどを過ごした大連について、三船はある雑誌インタビューで、「ちょっとコスモポリタン的な雰囲気をもった明るい風光に囲まれた清潔な街でし た。(中略)三船は外人キラーだといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、全然コンプレックスを感じたことがないの です」と語っている。

1939年、三船は19歳で召集され、終戦までの約6年間の軍隊生活が始まった。この軍隊での生活が三船の人格形成に大きな影響を与えることにな る。主な任務は、偵察機が撮影してきた写真を組み合わせ、敵地の地図を作る作業だった。この作業を続けた結果、機敏さと緻密さ、繊細さが培われた。

戦争末期になると、三船は九州の特攻隊基地に配属され、少年航空兵の教育係となった。少年たちを訓練して特攻に送り出すのが任務だが、三船は出陣の 挨拶にきた少年兵にスキヤキを食べさせ「最後の時は『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『おかあちゃん!』と叫べ」と話した。

少年兵たち の遺影となる写真撮影も三船の役目で、彼はレンズの奥にまだ頬が紅い童顔を数えきれないほど見ている。二度と戻ってこない少年を送り出すのは、過酷ともい え辛い経験だった。

のちに三船は、自分の息子たちを前に置いて、戦争体験語り、ボロボロと涙を流した。

三船敏郎曰く、戦争は「無益な殺戮」だった。