仏教とは人間が考えた哲学であり、神に背を向けた虚無思想に救いはあるのか。

 

上記より抜粋

 

2022.03.24.【吹替版】「仏教」Mac牧師

こんばんは。JD牧師の代講です。ここカルバリーチャペル・カネオヘの週半ば「聖書の学び」へようこそ。通常、旧約聖書を一行一行学んでいますが、今夜は話題性のある学びをします。しかし学びに入る前に、心から一緒に祈りましょう。

愛する天のお父様。あなたが引き受けて下さるようお願いするためあなたの下へ来ています。あなたの真理の御言葉を、聞きたいと思う全ての人に語ってください。このメッセージを受け取るため、私たちの心を整えてください。私たちを教育し、今夜の教えを通しここで成し遂げられるすべてのことに、あなたの栄光を見せてください。主よ、難しい内容です。私に機転を与え、この壊れた器を直してください。私が話すことすべて、あなたのことであり、あなたの御声を聞く人々の耳を調律してくださいように。

主よ、あなたの子どもたちに語りかけてください。私たちは皆、聞いています。救世主イエス・キリストの力強い御名によって祈ります。アーメン。

もう「おおっ」という声が聞こえてきますね。ー(笑)ー 何も言ってないのに! ー(笑)ー 主よ、、、

 

今夜は、仏教の信仰や宗教について学びます。これは、いろいろな意味で取り組むのが大変です。この種の話題は、今夜共に学ぶこの時間が、この宗教の表面を擦ることにさえならないでしょう。しかし私たちが世に出て行って証しする時の土台となるよう祈ります。この(仏教)宗教には、現在に至るまで進化を続ける写本があります。だから、話し合いが必要なんです。とても奥が深いです。同時に、時間が限られているからといって無理をすることなくそのために、単純化するわけにはいきません。なぜなら、それでは正当に評価されないし、またでないと、私たちの信仰に関して、彼らの質問に答えられる、より良い証人になれないでしょうから。ですから最低限、今夜のゴールは、仏教に関してより良い証人になることです。最低限、それが目標です。仏教の話をする最大の理由は、神がそう仰ったからです。私は題材を選ぶことはしません。神から題材を教えてもらうんです。それから私は主に祈ります。主が私を教育し、私の手を強くし、主が提供されたものを提供できるように。そうなるんです。そして、ここハワイでも興味深いことに、仏教は東洋の宗教として最も人気があります。そしてアメリカでは、実際、仏教が発展していて、その理由もいくつかあります。それは、欧米化しているからです。クリスチャン言語が吹き込まれているのです。だから、人々はそれに惹かれるのです。おそらく、他の理由も見えてくるでしょう。広い意義で考えると、特にこんにち、なぜこれほどまでに影響力があるのか。クリスチャン的言語を使うだけでなく、ニューエイジ運動と融合しているからです。有名人が多く、彼らの多くは、少なくとも部分的には仏教徒であると主張します。中には、クリスチャンだと公言している人、あるいは、かつてクリスチャンであった人もいます。ティナ・ターナーみたいに。知ってましたか? 彼女はその一人です。

マーク・ザッカーバーグジョージ・ルーカスシャロン・ストーンタイガー・ウッズ選手、リチャード・ギア。その他多数。たくさんいます。皆さんの中に、仏教徒として育った方や、ご家族に仏教徒がいらっしゃる方はたぶん多いのではないでしょうか。たぶん、ここにおられるかオンラインで見ている方で仏教徒がいるかもしれませんね。もしそうなら、イエス・キリストを信じる真の信者が、なぜ神が存在し、唯一の神だと知るようになったのか、心を開き素直に耳を傾けてほしいです。その神への唯一の道は、イエス・キリストを通してです。ですから 私たちは、できる限り最善の方法で、仏教の核心に迫ろうと思います。しかしそのためには仏教の主な教義を見る前に、仏教の歴史に触れなければなりません。

では、仏教という宗教は、どこから来たのでしょうか。

答え:インドです。インドが仏教発祥の地です。それを持ち出すのは、私が仏教や仏陀に出会ったのは、11歳くらいの時だったからです。叔父の家でのことです。叔父は海外から帰ってきて、言わば仏像や偶像をいくつか持って帰ったのです。叔父は、その中に香を入れ、香を焚くのです。私はお香の香りが好きで、尋ねました。「あれは誰?」「仏陀だよ。」私は「お~仏陀ね。」となりました。で、数年後、叔父が仏陀を崇拝するために香を焚いていたのではないことがわかったのです。彼らは自分たちがしている他のことのために香りで隠していたのです。ー爆笑ー

当時私は、仏陀はもともとアジアにいるものだと思っていました。毎週土曜日1:00にカンフー・シアターが放映されたからです。マジですよ。それが、私の感想です。ですからここで取り上げるのは、インドが発祥の地である、です。そこで誕生しました。私たちは仏教とは何なのか、その本質を探っていきます。その経緯と内容を。まず第一に世界で4番目に大きな宗教です。仏教はヒンズー教の分派です。そのため、多くの点で言語が同じですヒンズー教から生まれたからです。ヒンズー教の階級制度が原因で仏教が生まれたと歴史家は指摘します。ですから、そこから生まれました。この制度は、基本的に人々を5つの社会集団に分類します。その社会集団の頂点に位置するのがバラモン教です。ここには僧侶・学者・教師がいます。次が、クシャトリヤ族です。戦士や兵隊です。そして、ヴァイシャ。農業や商業に携わっている人たちです。そして、シュードラ族です。この階級制度における農民や召使いです。最後に ダリット、つまり不可触民です。道路清掃人や追放された人たちです。このピラミッドシステムのようなものを見てみると、結局は全体主義と密接に整合しているのが分かると思います。結果はほぼ同じです。なぜなら、金持ちはより金持ちになり、そして貧乏人はより貧乏になる。そういうことです。なぜそうなるのか? ええ、カルマ信仰が大きいからです。

「あなたは、社会的カーストや階級にいる。以前にやったことのゆえに、現在、この場所に属するのだ。あなたが上に上がることは、私にとって大きな関心事ではない。あなたは会費を払う必要があり、すると次の人生が良くなるだろう。」と。皆さん、その思考回路が分かりますか? そして、長年のこの階級制度の中で、何度か暴動が起こりました。剣を持って立ち上がって反逆を起こすようなことではなく、哲学的暴動を何度も何度も繰り返すのです。それから仏陀と呼ばれるようになる人が、これらの反乱の中で、最も影響力のある哲学者の一人であったことがわかります。シッダールタ・ゴータマこれが彼の名前です。紀元前560年ごろに生まれました。仏教に関連した教えの数々を残したとされています。このような経緯があります。彼は裕福な家庭に生まれました。彼が王の子として生まれたと言う人もいます。彼が神官や学者というカースト集団に属していたという説もあります。クシャトリヤ族だったという説もあります。しかし私のリサーチした中で一番信じるのは、彼が王の息子だったという事です。それを今夜見ていきます。29歳の時、彼の人生は大きく動き出します。それが、ゴータマが馬車で、自分の公園の1つを訪れたと言われている時期です。彼はそれまで、宮殿の門の外に出たことはありませんでした。だからこれが、門の外に行くのは彼には初めての経験です。言わば、人生を謳歌するために。それで彼は、初めて馬車に乗り、年老いた老人に会いました。その年老いた老人が、彼に揺さぶりをかけてきました。それで彼は、すぐに宮中に戻るように言いました。ですから彼は、宮殿に戻りました。それから、彼は勇気を振り絞って3回ほど出かけ直します。次の機会で、病人に出くわすことになります。そして3回目の旅で死人を見ることになります。彼は、今まで生きてきた中でそういう者を見たことがありません。彼は、痛み、苦しみ、死についてある程度説明されたでしょう。それが、彼を震わせ、動揺させました。そして4回目の旅に出ます。この4回目の旅で、彼はローブを着て頭を剃った人に会います。彼はシャーマンでした。もっと言えば、修行僧、または求道者というべきでしょうか。その人は、穏やかな物腰で、ゴータマはそれに感銘を受けました。その日の夜、彼は家に帰り、家族に別れを告げました。彼は自己の解放を求め、この旅に出たのです。それは続きます。仏陀の信奉者の一人が書いています。「彼はついに40昼夜、木の下に座った。そして『探し求める事を見つけるまで動かない』と心に誓った。この期間 邪悪な存在マーラが、彼に探求をあきらめさせようとした。40日の終わりに、彼は神の意識の最高域である涅槃を経験した。涅槃は、欲望の炎を吹き消す、吹き飛ばすという意味で、苦しみの終わりを意味する。」しかし 実はこれには定義がありません。なぜなら仏陀は誰にもそれを与えなかったからです。すべて暗黙/言外です。(続けます)

「しかし、その体験を通して、彼は救いを見つけたと思った。それ以来、彼は仏陀”または "悟りを開いた者 "と呼ばれるようになった。」それが、仏陀の意味です。逃げ場がないようなカースト制度に生まれ変わるのとはわけが違い、仏陀は、仏陀の八正道をたどることで、この世から救われる、あるいは逃れられるというプランを提示した。この八正道には、仏陀は、正しい信念、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思考、正しい瞑想によって涅槃に至ることができると語った。

さてこれらおのおのが、人によって違い、理解度によって、教え方が違うのです。私にある疑問は、涅槃に到達するための教えを、実際に行っているのは誰なのか。ある学者は、瞑想のサイクルの間に、過去の仏陀があなたに語りかけ、出会うこれらの道に導くと答えています。しかし再度、三大宗派の教えは、仏教教典同様に、みんな違う意見を持っているんです。この八正道に書かれていることを、1つ残らず正確に実行するのです。全部違うんですよ。これを見ると これらは外部で測れる絶対的なプロセスを持たない記述であることに注意する必要があります。「正しい」という基準が具体的に決められていないからです。皆さん、ついてきてますか? クリスチャンの信仰で、私たちの基準はイエス・キリストです。その完璧さには誰も応えられません。神以外私たちの誰もが完全ではないからです。しかし、神は私たちに"その道 "を示す完璧な御言葉を与えておられます。私たちクリスチャンは、救い主であるイエス・キリストを信じなければなりません。私たちの信仰から、主はご自分の完全性を私たちの上に置いてくださいます。私たちは、自分では何もできません。私たちはイエスを頼ります。それが正しい信仰です。神が私たちに正しい決意を与え、神の御言葉が、永遠の命である正しい人生につながる正しい行為を生み出す正しい言葉なのです。神が正しい努力や働きを教えてくださり、正しい考えを持つため、私たちの心は神にとどまるべきです。正しい黙想は 「詩篇1篇1-2節」に記されています。神の御言葉をお読みします。

詩篇 1

1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

2このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う(黙想)。

聖書は真理を語るばかりでなく、その真理を私たちに示すものです。神の真理には、あいまいな表現はありません。どれも絶対的です。それが大きな違いです。仏陀は、4つの高貴な真理があると説いたと言われています。

これらの高貴な真理は: ・苦しみの真理・苦しみの原因の真理・苦しみの終わりの真理・苦しみを終わらせる道という真理

その道とは、先ほど話した「八正道」だそうです。この信仰の中にある苦しみに取り組むというのがこれです。これは、多くの人を引きつけます。なぜなら、この方法は、苦しみの問題に直接的な答えを与えてくれるように思えるからです。しかしその方法は、苦しみの原因を個人の問題とし、個人の克服によって取り除くもので、それが「八正道」です。何が起きているか分かりますか? 個人として、苦しみが八正道によって取り除かれるという事。しかし再度、誰が、この八正道の基準を指示したのか。曖昧で自己決定的な感じがするからです。それが分かりますか? ある修行僧がこう言っていて、私の言いたいことを表しています。引用します。

「それは、一人ひとりが守り、実践し、発展させるべき生き方だ。体・言葉・心の自己鍛錬、自己開発、自己浄化である。信仰、祈り、礼拝、儀式とは関係がない。その意味で、宗教的と呼ばれるような人気なものは何もない。それは、道徳的、霊的、知的な完成を通して、究極の現実の実現、完全な自由、幸福、平和に至る道だ。」引用終了。

繰り返しますが、誰の基準なのか? 答えは、あなた自身の基準のようです。あなたの究極の現実に基づき、何が正しいかというあなたの理解を基礎に、あなたの道徳的、霊的、知的完全性を通して、あなたの完全な自由、あなたの幸福、そしてあなたの平和のために。私がそう言うのは、彼らによれば、苦しみは個人によってしか取り除くことができないからです。この件に関しては、もっと多くのことが書かれています。しかし、これは背景を説明するための高レベルなものです。私たちは、聖書の観点から苦しみを取り上げます。仏陀は、苦しみの真理は、あらゆる種類の渇望、願望、または執着から生じると語ります。それを考えてください。仏陀曰く、何かに執着することが、渇望や願望を持つことと同様苦しみの原因。

聞いていますか? これについて考えてください。もし私が涅槃の境地を求めているとしたら、どうでしょうか。皆さん、聞いてます? ー(笑)ー それって自虐的な発言ですよ。では、願望はすべて善ではありません。しかしクリスチャンとして、私たちは願望が悪いものでもないことを知っています。実に「詩篇27篇4節」神の御言葉をお読みします。

詩篇 27

4わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

私たちにとって、これはよい願望です。これは敬虔な願望です。「詩篇37篇4節」神の御言葉をお読みします。

詩篇 37

4主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。

仏教徒の友人に聞いてみる必要がありますね。彼らは本当にすべての願望を取り除けると思っているのでしょうか? 考えるべきことだと思います。繰り返しますが、その願望を取り除くのを望んだら? ー(笑)ー どんな罠にはまるか、わかりますよね? 私たちの究極の願望は、神に向くことで、神が私たちの心を正してくださいます。これは、誰もが持つ最高の願望です。仏陀が神に対してこのような願望を持たなかったのには理由があります。彼は不可知論者だったからです。これが何を意味するのか、私たち全員が同じ考えがあるのを確認するため以下が不可知論者の定義です。

「神の存在や性質、あるいは物質的な現象を超えたものについては何も知られていない、知ることもできないと考える人、あるいは神に対する信仰も不信も主張しない人。」

それが不可知論者です。明らかに、これはクリスチャンとして信じていることではありません。神は、誰もが見ることができる被造物を通し御自身を知られただけでなく、弁解の余地がありませんよ。 神はまた、その民を通して、ご自分の御子イエス・キリストを通して、聖なる御言葉を通し聖なる御霊の力によってご自分を知られるようにされました。人々がこういうような発言をする時、「あなたが、これやそれを知ることができない。あなたがこれやそれを分かれない。」私が彼らに質問したいのは、「じゃああなたは、私が知れないことをどうやって知れるのか?」これは、最大の無知と定義され、あるいはそのための言葉です。そういう意味合いを含みます。私はわからない。あなたがわかるはずがない。人々はそれをいつも使います。しかし 神は御自身を知っておられ、そして、これからもそうし続けられます。こんにちの世を見てください。私たちの目の前で、「預言」が成就しているのです。「預言」は、仏教や他のどんな宗教でも決して語られることのないものです。もし彼らがするなら、偽です。私たちは皆、主を知ることができます。みんなが。人々が主を求め始めることを祈ります「箴言8章17節」神の御言葉をお読みします。

箴言 8

17わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

真の英知を見出すことは、真の生ける神を見いだし、畏れることです。それが真の英知です。神は私たちに仰います。「神は、神を愛する者を愛する、神をせつに求める者は、神に出会う。」自分自身へではありません。仏教では、内を見よと言います。しかし神は、神を見なさいと仰います。私たちではなく、神を。では、苦しみについてですが、確かに邪悪な欲望と同一視されることがあります。エデンの園でも、私たちはそれを見ました。善悪の知識の木から食べたいと思う願望です。その願望は神に逆う事でした。しかし願望よりも”行為”が問題だったのです。その神に反抗する行為が、世の苦しみを引き起こしました。

その行為は罪深いです。“罪”が 問題なのです。罪があるから、すべての苦しみが存在するのです。これを仏教徒に説明する必要があります。問題は、罪なのです。すべての苦しみを終わらせる真の道は、キリスト・イエスにあります。人が神と和解することを願い、私たち皆のために苦しまれた方です。永遠が始まるその時、すべての苦しみが終わります。しかし、その時までは苦しみがあります。こんにち私たちは、自分の中でさえも苦しんでいることを目の当たりにしました。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、栄光が待ち受けているのを知っています。私たちだけでなく、すべての創造物(被造物)にとって、罪はすべてを分断しました。罪のために宇宙全体が分断されたのです。「ローマ人への手紙8章18-21節」

に記されています。神の御言葉をお読みします。

ローマ 8

18今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。

19被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。

20被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

21被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

その日が来ると、万物は回復します。罪が問題です。罪は、すべての悪があるところです。私の仏教徒の友人に対して、以下が大きな違いです。何が正しいか間違っているかは、誰が決めるのでしょうか? 社会? いくつかの文章を見ました。たくさんありますね。でも、誰が決めるんですか? 仏教の教えの多くは、私たちが考えるような道徳的な規範を扱っています。私たちが信じていることと一致するものもあります。疑問なしに。しかし仏教におけるそれらの道徳規範は、主観的なものです。主観的です。私たち(クリスチャン)の道徳規範は客観的なものです。そして変わりません。不変の神から来たものだからです。神が私たちにそれらを下さいました。世界宗教としての仏教の始まりは、紀元前500年頃と言われています。仏教を実践している人たちが、クリスチャンに語ることの1つが、

「仏教という宗教はキリストが誕生する483年前に生まれた。」彼らはこの点を、仏陀の教えがイエスの教えより前にあったと立証するため、大きく取り上げます。しかしこの議論には、見落としている大きなポイントがあると信じます。イエスの言葉が神の御言葉であるということです。

人間の目的、人間の堕落、人間の救済計画について、すでに語られていました。イエスは、これらの真理の教えを説き、目的を果たすために来られたのです。これは創世記から、預言者を通して理解されていました。既にありました。この聖書年表に、紀元前500年を赤丸で囲んで、その位置を示します。その左を見ると、分かるでしょう。それ以外のすべてが、事前に起こっています。この全てが、すでに決定されていました。世は、キリスト教新約聖書だけに限定したがっています。強調しすぎる教会もあるくらいです。「私たちは新約聖書の教会だ!」そうですか。しかし、教会が設立されたとき彼らはどのような聖句を読んだのでしょうか。ん?「使徒の働き17章11節」ベレヤ人たちは何をしましたか? 彼らは毎日聖句を調べました。何の聖句なのか? 旧約聖書です。それしか持ってなかったんです。そのため最低でも 仏教に関連する著書や教えを比較するなら、仏教は旧約聖書に比するべきです。他の方法ではなく。

ついてきてますか? 仏教にまつわる文章といえば、私が聞きたいのは、この宗教に関する哲学や著書の量は、どの程度まで知られ、議論され、追随されているのか。それは、私の仏教徒の友人たちが自分自身に問いかけるべきことです。自分が信じていると言っていることについて、自分はどの程度知っているのか? 自分が行っているのは、儀式や瞑想の実践だけなのか? 素朴な疑問です。私がそう言うのは、非常に興味深いのが、私が更に調べ始めたとき、この宗教の教義に向けられた文章が20万ページ以上あることが分かったからです。この宗教の教義に向けられたものですよ。単なる解説の話ではありません。そうではなく、彼らが正典、聖なるものと見なしたものを話しているのです。20万ページです!

これを踏まえて考えてみましょう。平均的な聖書は1400ページあります。ついてきてますか? もちろん仏陀死後も、多くの信奉者によって、仏陀に関連するあらゆる書物が書かれ、更に私が言ったように、現在も追加で書物が書かれているのは言うまでもありません。こんにちに至るまで、彼の教えとされているものです。著書の量はほぼ無限大です。クリスチャンとして私たちは、このことについてほぼ特別な警告を受けました。「伝道者の書12章12-13節」神の御言葉をお読みします。

伝道者 12

12わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。

13事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

これは警告です。私たちはこれを理解する必要があります。私たちは、神のものでないものに研究に研究を重ね、消耗してはいけません。終わりがないのです。もし神の御言葉が20万ページあるとしたら、皆さん、想像できますか? 入り口で敗退。アマゾンで買ったとしたら…「聖書を配達してもらえませんか?」「はい。全部運ぶのに約1年かかります。」莫大な量です。クリスチャンとして、私たちには1冊の書があります。事実、それが "Book/書 "という名称です。それが、聖書の意味です。”Book/書” 仏教は、皆さんわかりますね。その情報量の多さ。その道があなたの人生を左右します。私たち(クリスチャン)は命を得、そしてその道を歩みます。私の言っている意味がわかりますか? 聖典に書かれていることすべてを分からなければならない必要すらありません。エスを知ること、イエスを信じること、福音を信じることです。それがいのちであり、私たちはその道を歩むのです。仏陀から派生した著書物とは異なり、この聖書聖典の著者はすべて、真の生ける神に信頼を置いています。

神:それは自己満足の知恵ではなく、神から授かったものです。

しかし仏教では、明らかに、知恵を得るための教えは、仏陀自身からもたらされたものです。そう言われているのです。「伝道者の書」をみると、仏陀が言っていることがわかります。なぜなら、『伝道者の書』は そのほとんどが、神がいないかのように書かれているからです。それが正に仏陀が語る著書の数々です。

”空の空、いっさいは空である”(伝道者12:8)

「あなたの言うとおり、神はいない。」「たしかに、神はいないね。」そうありますが、ソロモンが正しい結論を導き出します。

「神が見えると、私たちは自分の本当の価値に気づき、神のために創造され、神への責務を知るようになる。」

仏教のどこにあなたの価値はありますか? あなたは誰に責務があるのですか? 仏教は他人のためにある、という主張にもかかわらず、実は「無」を理解するために、自分自身を中心に据えたものです。繰り返しますが、仏教徒としてこれに従う多くの人々は、これを忠実に守っているわけではありませんがこれが信仰の核となるものです。仏教には信徒(俗人)もいて、自分自身が仏教徒になるための直接の教えを求めない人たちが信徒です。彼らはサポートをします。彼らは誓いを立て、それを守ることを約束します。そのうちの5つを話します。

1)人を殺してはいけない。

2)盗んではいけない。

3)性的不品行をしてはいけない。

4)酒に溺れてはいけない。

5)霊的達成感を偽ってはいけない。

この考え方、あるいはここで語られている事に私たちの誰も反対する人はいないと思います。彼らのためのこれらの誓いは一度にする必要はありません。1つずつでも、色々な組み合わせでもいいんです。しかしこれらの誓いの主な目的は、非道な行いを慎むことだと僧侶は言います。もう一度、素人にとっての目標は、功徳、善行、善行為を積み重ねることです。これらの誓いは、短期間で行うことができ、放棄することも、生涯をかけることもできます。さてここで何が起こり始めるかわかりますよね。魅力的だから。頭に入れてください。修道僧や尼僧を経済的に支え、祝福してきたのは、一般市民です。誓いを立てると、お金を渡して祝福してくれるのです。また、金銭的な面だけでなく、他の面でも必ず祝福されます。

なぜ? 僧侶が、人々に代わって負のカルマを軽減するため仲裁をするからです。ー引用ー

仏陀は、長寿、美、幸福、名声を得る手段を信者に示し、天国で生まれ変わり、誠実な努力によって得た富の蓄積を奨励。」引用終了

それが何を導き出すか、わかりますか? その一方、言葉は悪いですが「中道、中庸の道、保守的な道」

という教えがあります。でも、それから、長寿と美のために、幸福、名声、天国で生まれ変わるため富を蓄積することを奨励しているのです。これを矛盾と思わない人もいます。彼らはこう言うからです。

「さあその財産は、僧侶だけでなく、一般人にも活用されます。慈善事業であり、一般人ができる最高の行為です。」ここで私たちは、慈善事業を問題視しているわけではありません。あなたが与えたいなら、

与えてください。慈善事業は良い事です。宗教と組み合わせた場合、

質問:これは心から与えられたものなのか、それとも 見返りを期待しての行為なのか?

でしょ? 続けます。ー引用ー

「寛大さの実践、特にサンガのような功利的な対象に向けられている場合、(サンガは僧侶です。)さらなる富を生み出し、家人(または贈り主)が家族に幸福を与え、友人を養い、火事や泥棒や敵から逃れ、客人や君主を敬い、サンガに更に供え物を捧げられる、と仏陀は賞賛。」

これがどうなるか、わかりますよね。繁栄のための支払いという感じです。多くの教会が全く同じことをしています。現在極東では、おそらくこの問題はないでしょう。当たり前のことを、当たり前にやっている。何とも思わない。しかしこの観念形態が西洋で提示されると、これこそ西洋の仏教がそうなります。もう一度言います。ニューエイジ運動と完全に一致し映し出します。それが、今のここアメリカの現状です。このような行いや功利的な幸運のシステムは、頻繁に神秘主義や迷信、悪魔の存在を過度に呼び込むような慣習につながります。真の生ける神がいなければ、この世の神である悪魔がどんなに高貴に見えることだったとしても、全てに自分の指紋を残すでしょう。また仏陀は、宇宙には始まりがないと説きました。仏陀曰く、宇宙は常に存在し、常に存在するさまざまな段階を経て再創造され続けていると語ります。もっともっと奥が深いんです。しかしこれが、 彼が信じ、教えたことの根底です。始まりはなく、自己が存在しないことを悟り、自己を消滅させることで苦しみから解放され、終わりを迎えるという思想です。仏陀は、宇宙、私が先ほど話した涅槃、始まりと終わりについて、多くの鋭い質問をされました。

彼は決して答えず、答えを出すことを拒否しました。私たちはこんにち、仏教徒の友人たちに質問をするのがよいでしょう。彼らの言葉を使わなければなりません。それが鍵だからです。彼らが使う言葉を。耳を傾け、聞くと、こういう風になります。「折り返してもいい?」皆さん、恥をかかないように。そうでしょ? 尋ねれる質問はこうです。もし、始まりがなかったとしたら、では、なぜ存在しない今があるのか。大多数の人々の人生が、生まれ変わりの連続したサイクルならなぜ確実に記憶していることを誰も示したことがないのか。しかし、私たちのすべては、常にあるこの連続的な再生の一部なはずで、仏陀も示さなかった涅槃を達成しない限りはこの本当に非現実的な世界で、私たちが見続けている苦しみに基づけば、苦しみは常にあるのです。これは皮肉ではありません。彼らが使う言葉を使った決定的な質問です。そして、多くの人が答えないでしょう。その書物には、始まりと終わりを扱うことはほとんど議論されない、ひんしゅくを買うとさえ書かれています。その理由を自分に問いかけてみてください。私の仏教徒の友人へ、そういう発言に、本当に人生を賭けていいのですか? 仏教徒の友人にもう1つ質問があります。深刻な質問です。生きたいという思いはありますか? それについて考えますか? あなたがそう考えるのを祈ります。事実私たちは皆、生きたいという願望があります。私たちは、状況が違うことを望んでいるかもしれません。しかし私たちは皆、生きたいという願望があります。その生きたいという気持ちには理由があります。また「伝道者の書3章11節神の御言葉をお読みします。

伝道者 3

11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。(私たちの心にです)それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

私たちの心には、永遠が宿っています。神の初めから終わりまでの御業は、私たちが決して見きわめることはできません。しかし神は、私たちに神を求める永遠の心を与えてくださいました。私たちは、神とともに永遠に生きるために創造されました。だからこそ、私たちは「生きたい」と願うのです。自分が神を信じると言いたいのか言いたくないのかに関わらず、それが「生きたい」と願う理由です。神が心に置かれたのです。永遠は今も、そしてこれからも私たちの心にあり続けます。私たちが知っている終わりが来ると、永遠が始まります。神の御前なのか、地獄の中なのかのどちらかです。 永遠はもう存在します。

ですから、生きたいという気持ちがあるのに、なぜ地獄を見るようなことをするのでしょうか? 仏教徒の友人に最後の質問です。仏教の実践に関連する20万ページの書物で、仏陀は何度、愛についてを他のどのトピック以外に言及したのですか。というか、もっと言えば、仏教の教えの中心は「愛」ですか? 

答え:違います。愛が焦点ではなく、また愛が他者への無条件の愛を示すような言葉で定義されていないと、機能しません。しかしながら、聖書は、愛が中心です。愛です。聖書が愛を定義します。

「第一ヨハネの手紙4章16節」に記されている通りです。これで締めくくります。神の御言葉をお読みします。

Iヨハネ 4

16私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。(なぜか?/定義されています)神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

神は愛です。そして神は唯一です。仏教には、私たちが同意できるいくつかの原則がありますが、仏教の教えは、私たちが信じている事とは大きく異なります。私の知っている仏教徒の友人たちは、温厚な人たちばかりです。あらゆる点で優れた市民で、自分の仕事、技術、どんな仕事であれ、それを得意とする素晴らしい人たちです。彼らは丁寧に、誇りを持って仕事をし、私がただただ大好きな資質を持っています。しかし、彼らには1つだけ欠けているものがあります。それは、イエス・キリストを知ることです。言われているのは、仏陀は自分を救うために家族を捨てました。一方、イエスは世界を救うために御座を去りました。仏陀の生涯は、神話に根ざしています。しかしイエスの生涯は、事実に基づいています。

仏陀は行いを説きました。

一方イエスは、信仰による恵みを教えています。

仏陀は奇跡を起こしたことがありません。

一方イエスは多くの奇跡をなさいました。

仏陀は決して罪を赦すことはできず、彼が罪びとでした。

一方、イエスはすべての罪の赦し主で、罪のない人でした。

仏陀は神であると主張したことはありません。

一方、イエスは 神であることを主張しただけでなく、神です。

仏陀は死に、今日まで死んだままです。

一方イエスは死に、聖書通り、三日目によみがえられました。

 

このすべてを考えてほしいと思います。私たちクリスチャンは、主の導きの通り仏教徒の友人と話すとき、次のような質問をして下さい。主があなたの心に置かれる人に、神の愛を示してください。彼らがすべての苦しみを終わらせる真の道を知ることができるように。彼らは、今日、それを手にすることができるのです。それが、神に戻る道です。イエス・キリストという人物に。

カポノは上がって来て、賛美で私たちを祝福してください。皆さんご起立ください。祈りましょう。

 

愛する天のお父様。主よ、あなたは私の心をご存知です。私の友人には、仏教徒だと言う人がたくさんいます。私は彼らを愛しています。ですからあなたがこのことを話すよう私の心に置いて下さった事を、とても感謝します。主よ、私は祈ります。今夜ここで行われたことについて、あなたにすべての栄誉と栄光がありますように。このメッセージが、あなたの聖霊の御力によって浸透し、あなたの真理の御言葉を受け取れるよう、心にひびを抱えた全ての人に届きますように。彼らが、主であり救い主イエス・キリストによってもたらされる真の道、全ての苦しみの終わりを見ることができるかもしれません。救世主イエス・キリストの力強い御名によって祈ります。アーメン。

 

以上

 

 

聖書は何と語っているか。

 

偶像を崇拝してはいけない。と書いてあります。

仏陀であっても創造主なる神の被造物です。

その被造物を拝んで本当に救われると思いますか。

 

当時インドではヒンズー教という悪魔教が支配ていました。輪廻転生という悪魔の嘘を信じ込まされ、気持ち悪い像を拝んで救われると人々は信じていました。

カースト制度という上位の階級が報われ、下位の人々は苦しみと悲しみから逃れる事の出来ない社会でした。まさに今の現代社会ではないでしょうか。

仏陀の悟りは、悪魔教に逆らた神抜きの考え方。生、老、病、死というすべて苦。苦から逃れる考え方という思想が生まれたのだと思います。

 

日本は先進国の中で自殺率はトップだそうです。先が見えない社会、格差社会の中で頑張っても報われない。いじめ横行し、殺人、疫病、災害、戦争、戦争の噂。聖書の預言通りの社会になっています。

阿部元総理が暗殺され、世界平和連合、統一教会が話題になっています。カルトの定義がありませんからカルトが何なのかわかりません。宗教が問題を起こしても信仰の自由がありますから宗教団体や属する組織はやりたい放題です。

なぜこんな悲惨な社会なんだ。と感じるのが正常な感覚だと思います。

聖書では創造主なる神様は、苦しんでる人々を一人残らず救おうとしてます。

真の神に救いを求めるのにお金はかかりません。無料です。

宗教の偶像、教祖に救いを求めればお金を要求されます。

 

私たちは、創造主なる神様を神様と認めない罪を犯し、神様から離れてしまいました。この罪は、あなたの魂を滅ぼす罪です。この罪が赦されない限り、あなたは天国へ行くことができません。このことは、創造主なる神様を神様と認めないすべての人に当てはまることです。

 

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできません。」(ローマ人への手紙3:23)

 

義人はいません。ひとりもいません。」(ローマ人への手紙 3:10)

罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙 6:23)

 

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。」(ヨハネの黙示録 21:8)

 

   これらは、神様との断絶状態を表しています。どんなよい行いをしても、神様との永遠の断絶から自分を救うことはできません。それでは、どうすれば救われるのでしょうか。

 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙 2:8-9)

 

   何もしなければ、あなたは永遠に神様と断絶したままです。神様の御子であるイエス・キリストを否定する人は、天国に入れません。そして、その結果は、「火の池」における永遠の苦しみです。(ヨハネの黙示禄 20:15,テサロニケ人への手紙 第Ⅱ 1:7-9)  

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ福音書 3:18) 

良いお知らせがあります。

しかし、神様と和解できる、とても簡単な方法があるのをご存知でしょうか。それは、神の御子(イエス・キリスト)によるのです。 あなたが救われて天国へ行くためには、あなたの罪が赦されなければなりません。人には、その罪を赦すことができません。 イエス・キリストは、あなたの身代わりになってあなたの罪を背負い、十字架上で死なれ、あなたの罪の代価を、ご自分の命で支払われました。そして、3日目によみがえり、ご自分が救い主であることを証明されたのです。

あなたの罪のためにイエス・キリストが十字架上で死なれ、葬られ、そしてよみがえられたことを信じることが、唯一の天国への道なのです。

 

エスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ福音書 14:6)

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書 3:16-17)

 

どうすれば、あなたは救われるのでしょうか。聖書は、こう断言します。

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ人への手紙10:9-10)

 

神様はあなたを愛しておられるので、この永遠の命である救いを、無償の贈り物としてあなたに与えてくださるのです。

 

罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ローマ人への手紙 6:23)

 

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」 (ローマ人への手紙 10:13)

 

エス様を救い主としてお迎えする準備ができましたか。 イエス様を受け入れる告白を、神様にお知らせしましょう。今、ごいっしょにお祈りいたしましょう。

 

「イエス様、私は罪人です。あなたの救いを必要としています。自分の力や行いによっては、天国へ行くことができません。あなたが私の罪を赦すために十字架で死んでくださり、葬られ、よみがえられたことを、心から信じます。私の心の中心に入り、これからの私の人生を導いてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン」

 

 どうか一人でも多くの方々が神の救いと恵みと祝福が与えられますように。

 

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